The Smashing Pumpkins

オリジナルメンバー
ビリー・コーガン(ヴォーカル、ギター)
ジェイムズ・イハ(ギター、コーラス)
ジミー・チェンバーレン(ドラムス、パーカッション)
ダーシー・レッキー(ベース、コーラス)

ビリー・コーガンは、別のバンドで活躍していた日系3世のジェイムス・イハに出会い活動を共にするようになる。数週間後、突然ジェイムスが失踪してしまうが、それから2カ月後たったある日ジェイムスから連絡が入り、再び2人はバンド活動をはじめることとなり『Smashing Pumpkins』が形成された。彼等はデモテープを制作し、レコード会社に送るなどして本格的に活動しはじめる。
ビリーとジェイムズは当時出入りしていたクラブAvalonの外でダーシーに出会う。ビリーは彼女の風貌とあまのじゃくな態度を気に入り、Smashing Pumpkinsのベーシストとして迎え入れることにした。また、ドラマーも探していたビリーは、友人からジャズバンドでプレイしていたジミー・チェンバーレンにを紹介される。それまでロックバンドでドラムを叩いた経験のなかったジミーは、ビリーの生み出すサウンドに感動し、バンドに加わることになった。

オリジナルメンバー
オリジナルメンバー

インディーズレーベルからアルバムを出すなどバンドの活動は軌道に乗り、バンド結成から2年ほどでメジャーデビューが決定する。ヴァージン・レコードの子会社である「Caroline」と契約をかわした彼等はプロデューサーにButch Vig(ブッチ・ヴィグ)を迎え、1991年3月に1st Album『Gish』をリリース。ビリーはアルバムの出来については非常によいと思っていたため、それに伴うツアーも同じようになるだろうと考えており、バンドはより精力的に活動していくようになった。
しかしながら、ベルギーのthe Tourhout/Werchter Festivalや、イギリスのthe Reading Festivalに出演するなど精力的に活動する一方で、ツアーの疲労などからメンバーたちは次第に精神的に不安定になっていく。
当時、ビリーは重度の鬱に陥っていて、ジミーはドラッグとアルコールに溺れるようになり、恋人関係にあったジェイムスとダーシーは破局を迎えツアーを続けていくことが難しくなっていった。そんな矢先、彼等は再びButch Vigをプロデューサーに迎え、セカンドアルバムのレコーディングに入る。当時ビリーは、レコーディングに関して、曲と詞を書くだけでなく、全てのギターとベースの演奏もこなしていた。そのためアルバムの制作には非常に時間がかかったが、この地道なレコーディング作業が次第にビリーの精神を安定させていった。
1993年7月には2nd Album『Siamese Dream』をリリース。このアルバムは音楽評論家から非常に高い評価を受け、グラミー賞の「ベスト・オルタナティヴ・アルバム」にもノミネートされた。バンドはツアーをこなしながら、TV出演や雑誌のインタヴューに答えるなどますます飛躍していく。

翌年には次回作の構想を2枚組と発表。サードアルバムのリリースまでに時間がかかることを配慮して、B面やレアトラックを集めた『Pisces Iscariot』をリリースする。この年に彼等はLollapaloozaのヘッドライナーをつとめるなど一躍スターダムにのし上がっていくが、彼等が有名になるにつれバンドへのバッシングも強くなっていった。
バンドはFloodとAlan Moulderをプロデューサーに迎え1日16時間にも及ぶハードなレコーディングをこなし、1995年10月に3rd Album『Mellon Collie and the Infinite Sadness』をリリース。このアルバムはビルボードチャートで初登場1位を獲得した。また、同年には本作のツアーのサポートキーボーディストとしてJonathan Melvoin(ジョナサン・メルビン)がツアーに参加する。バンドが抱えていた苦悩とは裏腹に、傍から見れば彼等にまさに絶頂期にあった。Mellon Collie and the Infinite Sadnessの売上はますます伸びていき、ツアーは大好評。しかしながらバンドはさらに不安定な状況に陥っていくことになった。
このツアー中、アイルランド・ダブリンで、激しいショウの途中17才の少女が圧死するという事故が起った。バンド内はますます険悪なムードになり、制御が聞かない状態になっており、ジミーとキーボーディストのジョナサンは再三警告したにもかかわらずドラッグを使用。そして、ツアーの日程も残り少なくなった1996年7月11日深夜、悲劇は起こった。NYのRegency Hotelでジョナサンがオーバードーズで死亡、その場にいたジミーはすぐさま逮捕された。バンドの他のメンバーも警察の取り調べを受けることとなり、翌日釈放されたが、この事件でバンドはジミーを解雇し、活動休止の状態となった。 ビリーは当時「我々がいかに批判されたとしても、ジミーの健康と、バンドのみんなの精神的安定の為に、彼と別れざるを得なかった」と語っている。

このような苦しい状況の中であったが、ビリーはツアーを再開する為に新しいドラマーを探すこととなった。
the FrogsのDennis Flemoinをキーボーディストに、そしてかつてPumpkinsの前座バンドを務めたこともあるバンド・Filterのマット・ウォーカーをドラマーとして迎え入れた彼等は、再び活動を再開する。事故・事件そしてビリー自身の離婚・・・苦しい状況を背負って、Mellon Collie and the Infinite Sadnessツアーは翌年(1997年)2月まで続けられ、バンド、そしてビリー・コーガンの苦悩をよそに、Mellon Collie and the Infinite Sadnessは全世界で700万枚近いセールスを記録し、数々の賞を受賞する。

Matt Walker在籍時の貴重な1枚
Matt Walker(写真右端)在籍時の貴重な1枚

その後、マイアミでのthe Rolling Stonesの前座公演のパフォーマンスを最後にMatt Walkerが脱退する。バンドは不安定な状態でありながらも、過去の作品とは異なる新しい作品を生み出すべく、4作目となるアルバムのレコーディングに入る。’97年末から続いたこのレコーディングは試行錯誤しながらも順調に進められた。正式なドラマーがいない為、バンドはMatt CameronやJoey Waronke、ベテランドラマー・Kenny Aronoffに声をかけるなどしてレコーデイングを行っていった。その後1998年6月に4th Album『Adore』をリリース。また、新作リリースに先駆けてヨーロッパなど各地でフリーコンサート(シークレットショウ)を行った。ツアーには、ドラマー・Kenny Aronoffの他に、David Bowieのサポートキーボーデイストも務めたMike Garsonや、パーカッションにはTom WaitsのサポートをしていたStephen Hodges、バイオリンなどのマルチ演奏家の女性・Lisa Germanoも参加した。

ジミー不在の時代
ジミー不在の時代

しかしながらアルバム『Adore』は、リリース9週目にはビルボードのTOP40からランクダウン。ビリーはアルバムセールスが伸びないことに失望を感じ始めていた。Adoreからのサードシングル『Crestfallen』がリリースされる予定であったが、アルバムのセールス不振が原因となり、契約のトラブルが発生し最終的にリリ−スされないことになった。こういった状況が引き金となり、ビリーはマネージメント会社に対して「考えの相違」を感じるようになり、契約を解消、あたらしいマネージャーを探すなどアメリカの音楽業界に不満をつのらせていく。
1999年1月、ドラッグ事件のため解雇されていたジミーがバンドに復帰。これについての正式な発表はされなかったが、ジミーはその後の新作のレコーディングやツアーにも参加することになり、見事に復帰を果たした。しかしながらバンドのゴタゴタは続き、同年9月にはベーシストのダーシーが「女優という新しい分野で活動したい」という理由によりThe Smashing Pumpkinsを脱退する(その後ダーシーは2000年1月にシカゴの西側でクラック(コカインを調合したもの)3袋を購入、薬物所持の罪で逮捕されるという事件を起こす。)かわりのベーシストとして元ホールのメリッサ(当時28歳)が加入することが正式発表される。

新メンバーとしてメリッサが加入
メリッサ(写真左端)が正式メンバーとして加入

ジミー復帰後の活動も順調、2000年2月には5th Album『Machina the machine of god』をリリース。バンドの活動は順調に見えたが、同年5月23日、ビリーがロサンゼルスのKROQのラジオインタヴューでスマッシング・パンプキンズの解散を発表。同日夜にはファンに対し、ステージ上からも解散を告げた。
9月には6th Albumとなる『Machina2-The Friends and Enemies of Modern Music』をリリース。これはAdoreやMachinaからのアウトテイク及びデモなどを集めたアナログ盤5枚組となっている。とはいってもこのアルバムのオリジナルは25組しか存在せず、ビリーの親しいや友人やファンサイトに配られた後、インターネットでフリーダウンロードという形態をもって正式リリースとされた。(ので、CDに納められた正式プレス盤は市場に出回らなかった。)
同年12月2日、バンドはシカゴのクラブ「Metro」で彼等のファイナルショウを行う。バンドがスタートした時と同じ場所で彼等は12年間に渡る活動に幕をおろした。

バンドの活動はそのまま終了するかと思われたが、ビリーのソロアルバム『The Future Embrace』がリリースされた2005年、ビリーはアルバムリリースと同時に、地元シカゴの新聞広告一面でThe Smashing Pumpkinsの再結成を発表する。ビリーはオリジナルメンバーの再集結を願ったが、その望みはかなわず、結局ドラマーのジミーだけが参加の表明をし、翌2006年2月にビリーとジミーはバンドの再始動の為にワーナーと正式契約を結んだ。アルバムリリースの為にレコーディングを行っていた彼らだが、この間、ジェイムズとダーシーの代わりになる新しいメンバーについての発表がされることはなく、再結成後に初めて行われたライヴでツアーのサポートギタリストとしてジェフ・シュローダー、ベージストとしてジンジャー・レイズ(ジンジャー・プーリー)がお披露目されるだけにとどまった。
2007年7月10日に再結成後初のアルバム”Zeitgeist”がリリースされ活動は軌道にのるが、その後2年間来日公演が行われる事は無く、2009年3月にはオリジナルメンバーのジミーが脱退を表明。現在、バンドに残っているオリジナルメンバーはフロントマンのビリーだけになってしまった。

※2007年以降の出来事は今後追記して行く予定です。

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